2011年7月アーカイブ

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  こうけい.jpg *紅赤の発見と普及

 明治31年に大宮台地にある針ヶ谷(浦和市)で
山田いちが発見したといわれています。

自分の畑で育てているサツマイモから突然変異した
「とりわけ肌の鮮紅色ないも」をみつけ、それを紅赤と名づけました。

従来のよりも味、香り、舌触りが優れているため、紅赤ファンが増加し、
東京市場でも評判になりました。

その後川越に伝わり、川越いもといえば「紅赤」といわれるようになったのです。


サツマイモの品種というと現在残っているのはほとんどといっていいほど
行政が作り、育成し、普及したものですが、
紅赤は民間人の山田いちが発見し、現在まで百年以上生き残っていおります。
山田いちには功績により、「富民賞」が送られました。

beniaka-imo.jpg


*特殊な品種、サツマイモの女王「紅赤」
 紅赤は川越祭り直後から初霜が降りる時期までが最盛期で、
ほかのサツマイモより時期が遅めです。
紅赤を育てるのは難しく、作るのには大変な技術を必要とされます。
収穫量もほかのサツマイモに比べ少ない。
だか他のサツマイモにはない、味、香りで人々を魅了しているため、
作り続けられているのです。 



*紅赤の危機
 戦後になると主要作物がサツマイモ、麦、茶から
大根、ほうれん草、サトイモに変わり、サツマイモ作りが激減します。
一番大きな要因としては、経済性の問題です。
サツマイモを主生産とした農家経営では 収入が上がらず
専業農家では生活できなくなりました。
ほかの青野菜系は輪作体系で、同じ畑を休むことなく使って2~3種類の野菜が順次作れます。

サツマイモの場合、ほかの野菜と一緒の畑で作ると肥料のバランスが崩れ、
良質なサツマイモができなくなります。
特に紅赤の生産は難しいため、商品としての価値さえなくなってしまうのです。

より生産性・換金性がある、大根やほうれん草などの青野菜を畑で育てれば、
収入が増え豊かに生活できます。
経済優先の社会構造は、こんなところまで影響を及ぼしていたんですね・・・。

 



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*生き残るために・・・紅赤
 現在川越では川越サツマイモ商品振興会と若手農業経営者「4Hクラブ」が手を組んで、紅赤が作られております。 
東洋堂でも4Hクラブの紅赤を使ったいもせんべいを販売しております。

 

 


 

川越城の太鼓

川越市内石原町にある本慶寺、皆さんはご存知でしょうか?

本慶寺には川越城の太鼓が保存されております。。
奉納者は地元の渡辺政方と伝えられております。



「武蔵三芳野名勝図解」を著した中島孝昌の孫が著した、「佐久良能保比」には、
川越城のことが詳しく記述されております。


taiko中.jpg
その中に「太鼓櫓」の項目があり、
川越城内に昼夜12時のときを知らせた
「時の太鼓」であったことが記されております。



最後の川越藩主の家臣録である分限帳にも、
「太鼓打」という名前が示されており、
「時の太鼓」と打つことは正規の職務となっておりました。


江戸時代において、城内に時を知らせる太鼓櫓が設置されることは
一般的であったようです。
太鼓櫓は、二重の櫓で二階に太鼓を設置しその音を響かせるため
二階の窓を大きく開けるなど工夫をしていたようです。










川越の観光名所のひとつである伊佐沼。

そんな伊佐沼に今年も古代ハスが見ごろの季節がやってきました。


古代ハスって何?
普通のハスとどう違うの?

って疑問に思う方のために
古代ハスのことについて調べてみました!!


古代ハスとは別名大賀ハスと呼ばれ、
植物学者の大賀博士によって発見されたことからそういわれております。

今から2000年以上前のハスの実から発芽、開花してはすのことをさすそうです。
伊佐沼 はす中.jpg 

↑今年の古代ハスの様子。。。

 


古代ハスと一緒にかわいいカモさんも見つけました。
気持ちよさそうに泳いでいます!!

  伊佐沼かも中.jpg

 

 

 

東洋堂では春頃より、緑のカーテンを育てております。


緑のカーテン小.jpg
緑のカーテンとは、太陽光遮断、断熱効果があり、今日本中で注目されています。
日本では従来、すだれや暖簾が役割を担ってきましたが、
植物にすることで、二酸化炭素減少に役にたち、
地球にも人にも優しいものになっております。



緑のカーテンのはつる植物を育てることが多いのですが、
いもせんべいということより「紅あずま」の緑のカーテンに挑戦中です。

緑のカーテン全体小.jpg
現在はまだまだカーテンとまでは育っていませんが、
今後の期待が高まるばかりです!!


これから「紅あずま」が成長の随時ブログに載せていきたいの考えておりますので
皆さんも一緒に紅あずまの成長を見守ってください♪





 今回は、川越芋がなぜ有名になったのか、です!!

川越地方の芋作りは、1750年頃からといわれております。

時の鐘.jpg江戸の小石川養成所の薬園内でさつまいもの試作に成功し、
その後関東の各地で種芋による試作ブームが始まり、
川越にもさつまいもが伝わります。



最初に川越でさつまいも作りに成功したのは、吉田弥右衛門です。
吉田家の成功を機にさつまいも作りが徐々に広まりました。

当時、さつまいもというとあくまで飢饉に備えた救荒作物であり、
飯米を節約する食べ物でした。
だが、さつまいもの試作成功後60年、
江戸に焼き芋屋が現れ、冬のスナックとして爆発的な人気を確立し、
江戸周辺に焼き芋用のさつまいもを作る村が現れました。

とりわけ川越産のさつまいもは質量ともに優れており、
「本場もの」といわれるようになったのです。

P1010963.jpg
 

 

 

明治維新で江戸が東京になっても、川越芋は
新河岸川の舟運で東京向けの下り荷物として、
浅草、神田、本所などの甘藷問屋に大量に送られます。

当時の名残で、浅草さつまいもの花1009.jpgの隅田川縁に
「川越地方より出た小平次」の略で
「川小商店」という屋号の甘藷問屋が残っております。


<川越おいも探訪より・・>

 

 








 

「小江戸川越おいも探訪」より
今回は、「川越の甘藷先生、赤沢仁兵衛」についてです。


明治のさつまいも先生と呼ばれた赤沢仁兵衛。
従来の栽培技術を改良研究し、
さつまいもの収穫を倍にする増収法を確立しました。


仁兵衛は天保8年に今福村に農民として生まれました。
その後、赤沢家の婿養子となったのですが、
当時の赤沢家は畑や山林が抵当に入っており、
住んでいた家も親戚の所有で大きな借金を抱えていました。

そんな逆境の中、さつまいも以外作れる作物がなかったこともあり、
さつまいも作りで借金を返済しようと考えました。

仁兵衛はさつまいもの作り方の研究に没頭し、
明治初期にはさつまいもの増収法の基本的方法を確立しています。


 

こうけい.jpg


のちに「赤沢式」と呼ばれるようになった要点には
1.どうすれば芋がたくさんつくよい苗ができるのか
2.ウネを思い切り高くすること
3・稚肥をたくさん加えること
がありました。

この赤沢式は後に、郡役所に注目され、
明治43年には「実験甘藷栽培法」という本も発行し、
いっそう普及がなされました。


赤沢家は今でも残っており、お墓も畑の中に立てられています。

川越がさつまいもで有名になったのも
赤沢仁兵衛の研究熱心な力もあったようです。

 

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